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一神教-マルクス主義者の対立構造を見て

珍しく真面目な始まり。
共産主義宣言を読んでみた。
第一次産業革命後の世界における絶対王政に対して資本主義を経て社会主義へという思想だと理解した。 
ちなみに、この対立構造という基本理念は共産主義者に引き継がれ、常に対立した相手を倒すことにより理想社会に至るとなる。このあたりはいくつも思い当たる例がある。

日本では対立していなかった資本家と労働者

僕には不可解なのは、なぜか資本家と労働者が二項対立であり、資本家を打倒(革命)して、社会主義という楽園へと至るという基本の基本となる点だった。
これは、人間同士の戦さなんぞより、台風、山火事、大水、地震、津波といった天災が数多くあり、そのたび「こんなことやってる場合じゃねぇ」と戦いを放り出して互いの村の救援に当たらないと双方全滅なんて環境も強く影響しているだろう。
日本では流れ者が拾われて大店の手代になって店を構えるなんて話はいくらでもある。江戸時代の支配階級の侍は商家より貧乏だ。資本家と庶民は対立はしていない。日本の政治信条は「和を以て貴しとなす」だ。

一神教的二項対立?

さて、ここでマルクス当時の資本家とは何かに話を戻そう。
キリスト教のプロテスタントは、商売の利益で楽しむようなことを卑しいものと考えていた。そして、何らかの商売で利益を得たものはその利益を再投資し、成功すると資産家になるという考えだったと宗教学から知った。
たしかにこれでは資本家と労働者は交わらない対立関係となる。だから戦いに勝って理想の社会主義へと至るとなる。

結論

僕は、これは実際とは異なると考える。
また、経済は必ず一方向に動かず、伸び縮みを続けろもので、無理に引き伸ばすと必ず反動を伴って戻ると考えている。
したがって楽園に至るとは僕は考えない。そこが楽園になったら次は誰が管理するか?
僕の考えは「人生楽ありゃ苦もあるさ~♪」がずっと続いていくだけ。
だったら仲良く続いていった方が良い。