> 母に習った日本泳法(水術 水府流太田派)04

亡母に習った水泳

その四

−水泳の考え方−

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 水泳というのは武芸の一種です。これは、単に昔の「武芸十八般」のうちだからではなく、現在の競技泳法とは考え方のベースが異なるためです。ただし、あえて言うならば、「水難救助隊」とか「ライフセーバー」の方達とは通じるものが大きいように(勝手に)感じています。

<95/11/19>

スポーツと武道

ご存じのように、現代の競技水泳にはバタフライというものがあります。実は、僕にできない泳ぎ方なんですが、もとは平泳ぎから別れてできたものです。
 他の特徴はおくとしても、バタフライは激しく体力を消耗する泳ぎ方です。100mも泳ぐと、みんな息が上がっている。それがあたりまえのものとして、オリンピック競技にもある。
 それに対して、僕が母から習った古流泳法は、1時間ほど泳いで疲労して、プールの縁から上がり損ねると「疲れるほど泳ぐのは恥ずかしいことよ」と怒られたのでした。この一件はどえらくたたり、その後何年にも渡って言い続けられる羽目になったのでした。

 スポーツと武術の違いは、つまるところこの違いだと思うのです。競い合うのがスポーツであり、武術は実用の目的指向である。
水中になんからの理由で放り出されても、助かるために長く泳げなきゃならなかったり、水中で狙い撃ちされたりしないために(および、体力の消耗を防ぐために)静かに水しぶきを立てないようにするというように。
 戦場で舷(ふなばた)から放り出されて、バタフライで泳いだら、一瞬にして弓の一斉射撃を浴びて針鼠でしょう(^^;)。 スポーツも武術も、きっちりとした練習を要求される体技だという共通点はあるけど、根底に流れる思想が全く異なるものだと思うのです。

 でも、異なるというのは円と三角の違いであって、いずれが貴いというわけではない。ただ、丸と三角は同列に論じることはできない、ということだと思っています。

<95/08/09>
水への心構え

 「水をなめるな
 このセリフは、数限りなく厳しく言われました。
 ちょっとでも体調が悪いときや、気分が乗らないとき(←重要)は、決して泳いではいけないと言われました。
 「泳ぎに行って事故を起こすのは恥と思いなさい」ということでした。
 一度、プールで無理をしすぎて、プールを上がるときに腕の力が抜けて、ふっと後ろの水中に落ちてしまったことがあります。
 そのときは怒られはしなかったものの、後まで「あんなになるまで無理をして泳ぐのは愚の骨頂だ」と言われ続けました。
 なお後年、僕がバイクに乗るようになってからは、この考え方をそのままバイクに適用して、他人にも「バイクをなめるな」と言いまくってます(^^;)。

<95/08/09>
できるということ

 古流泳法の「泳げる」というのはかなり高いレベルを要求されます。
 したがって、僕程度ですと「なんとか浮ける」という表現になりますが、これでも、「泳げる距離は体力次第」ということになります。
 遠泳に出たことはありません
(*1)が、どんなに低く見積もっても、800mぐらいは楽に泳げるはずです。

(*1)遠泳に出られるレベルではありません。まさしく、ただ浮けるだけといったところでした。

このページの内容は、かつてニフティのあるフォーラムに書込んだ内容を基にしています。本来ならば、現在の正しい知識に基づいて書くべき内容なのですが、今書き直すと、専門用語が生半可に入り、かえってわかりづらくなるため、あえてそのままの内容で、一部だけ直して書きます。また、用語もあえて訂正していません。したがって不足や間違いがあることもたしかですが、ご容赦ください。それぞれの内容には初出の年月を記載してあります。

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