●両山泊・馬房 限定解除 その1●限定解除の昔話 |
いまでこそ教習所で大型自動ニ輪免許は取れるようになりましたが、その昔は限定解除というとても難しい国家試験がありました。
とても難しいというのはシャレではなく、国家試験の中でもっとも合格率が低い試験(数パーセント)だったのです。 そして、僕は突然思い立って、限定解除に挑戦することにしたのでした。 その内容を書いたログが見つかったので、再構成してアップすることにしました。 いやー、性格もやることもは当時から変ってないですわ。 なお、ここは完全にCSS対応で書いています。 CSS非対応ブラウザでもきちんと見られることは確認してありますけれども、できるだけ対応したブラウザ(IE4.0以降)を使うことをおすすめします。 |
受験の動機(91/09/08)
始まりは、90年の8月末、警視庁の砧の訓練所で参加した「中込二輪教室」にモーターサイクリスト別冊の方がZepher 750 (Kawasaki)を持ち込んできたことからであった。
当時、Zepher 750は新型でまだ、ショップにもあまり並んでいなかった。
400cc並みのコンパクトさと、取り回しのよさそうな車体。なにより未知の750ccという排気量。新型車。これだけそろえば、乗ってみたくなるのは人情だろう。
「後で試乗会やるよ」 訓練所は教習所と同様で公道ではないのだから、「乗れる」と期待したのも無理もなかった。だが現実に試乗できたのは限定解除した人だけであった。 今考えれば、試乗と言ってもジムカーナみたいなコースをブッ飛ばすのである。 ある程度以上の技量がないと、転倒の危険性を考えると限定解除もしていない人には貸せないのは当然、というのはあと知恵である。 「悔しい。」単純にそう思った。「限定解除を取ってやる。」 しかしいくら頭に来ても、直接試験場に行けば落ちるのは目にみえていた。 なんせ、その時の経験は2年である。おまけに砧でも速いグループにはとてもついていけない程度の腕前である。 そう思って教習所に行くことにした。しかし、金がない。 こうして、限定解除の計画は90年の12月まで雌伏の期間を迎えたのであった。 ちなみにこの日、妙な決心をしたためか、40度の高熱を出してブッ倒れてしまっ たのであった。 練習開始(91/09/21)
さて第0回(元のログは連載形式)は、取る決心をするまででしたが、教習所への入所の前にバイクの技量、体格などのデータを書きます。
身長:172cm 体重:72kg 年齢:28歳(当時(^^;)) 運動神経:なし。 バイク暦:88年に26歳で中型免許取得。以降、月に1〜2回本郷SRの方に板橋教習所などで教えていただく。つまり、経験3年でおまけに「遅れてきたライダー」に入りかけだった。 その間、ずっとクラブマン(Honda GB 250)に乗っていた。 12月が来た。待望のボーナスである。この金で、僕は限定解除を果たすのだ。 毎月、練習をしているのだ。そんなに下手ではないはずだ。 教習所は、人のうわさなどから都民に決めていた。決めた理由は、知り合いに行った人がいて「親切だ」と教えてくれたことと、割引がもらえたためであった。 ほかにKM自動車教習所とレインボー・モータースクールを検討したが、KMは鮫津試験場専門(受験は府中試験場と決めていた)のため、レインボーは曜日が火曜だけで、請負タイプがないために候補から外れた(それ以外は遠い)。 指導には合格までの請負制と時間制の2タイプがあり、時間制は、早く終われば安く済むシステム、請負の方は超過が出ても総費用は安くあがるシステムであった。 タイプは、自分の実力を知っていたため請負にした。もっとも、知っていると思っていたよりも、はるかに実力は低かったのだが。 入所前、コースを走っている他の教習車を見る。あまり、うまくないように見えた。 「これぐらいなら、オレだって……」 甘い考えであった、 12/15に入所金を払い、16日から教習を開始する。 始めは、取り回しとメインスタンド立て。 車体を倒して立てる、という訓練である。大丈夫かなと思ったが、意外と楽にできた。 これなら楽勝と思った。 そして、走行を開始した。 「うげげっ、おっ重いっ」乗ってみると今までのバイクとは、全く感覚が違っていた。 最初は外周を軽く流すだけだったが、それすらもまともにできない。ついフロントブレーキを握って、「がっくん」と沈みこんだりする。なにより重さになれていないので 車体を倒しこめない。 アクセルを開ければ、車体は立つ。そんなことは頭ではわかっている。しかし、体はそういうふうには動かなかった。 最初の教程は、簡単なS字と小回りだった。しかし、僕はここでコケまくった。 1時間のうちに5、6回転倒したこともある。クラブマンの軽い車体を操るうちにクセがつき、上半身でバイクに乗っていたためと、重い車体のコントロールに気を取られて、アクセルとリアブレーキの使い方がバラバラになっていたせいであった。 おかげで、転倒した車体の引き起こしだけは絶対の自信が着いた。事前審査の練習は、もはや完璧であった。 ついでに、押し掛けも上達してしまった。 ところで冬の都民教習所では、しばしば路面に炎が上がっている。 これは、転倒したバイクのキャブからこぼれたガソリンがなかなか気化しないので、すべると危険なので燃やすのだそうだ。 「ここのバイクはみんながキャブからガソリンを路上に捨てるから燃費が悪い」とは教官のことばである。 限定解除教習記第2回(91/09/28)
限定解除教習記第2回です。
本論に入る前に、都民での実技教習の指導方法について触れておきます。 限定解除の教習も中型の教習と同様に、第1段階から第6段階までに分かれていて、1から3段階までが特別課題(S字、クランク、短制動など)、4から5が法規、6が総合となっていた。 そして、この6に来た頃に、教官から「そろそろ予約を取ってこい」と言われるのです。 さて。 ようやく750ccの大きな車体(教習車はCB750F)にも慣れ、S字とクランクはクリアできるようになった。一本橋もタイムは早いものの渡れるようになった。 それから、特別課題コースに入る。 特別課題コースは、府中のそれを摸してあり、一本橋→波状路→スラロー ムと続き、その後にS字とクランクか組み合わされている。 メニューとしては、すでにやったものの組み合わせにみえた。しかし、問題は これらの接続が、すべて小回りだ、という点であった。 スタート地点から小回りして一本橋に入る。一本橋から、小回りして波状路に 入る。波状路から、スラロームへ。 一本橋へのアプローチをミスすると、橋から落ちる。スラロームでミスすると、途中でふくらんでラインを踏む。これだけのことがあきれるほどうまくできない。 これを「とりあえず」クリアできるようになるまで8時間かかった。 このへんに来る頃には、僕のバイクの技量に関するプライドは粉々にフッ飛んでいた。今となっては笑ってしまう話だが、入所前には多少自信があったのだ。 ちなみに、入所する人の大半が自信を持っていたようだ。で、みんな落ち込むのである。僕の場合は、たいした自信ではなかったので、壊されてもたいしたダメージはなかったが、ひどく落ち込む人もいた。なお、大概の人は僕の半分の時間でパスしてなお落込むのである。(^_^;) 第4段階では、法規コースとなる。 坂道、ポンピング・ブレーキ、左右確認といった課題である。ここに教習所の持つノウハウが注ぎこまれるわけだが、あまり印象に残る話は多くない。 「(うまいんだということを)見せる走りをしろ」 「とにかく開けるところは本気で開けてフル加速しろ。遅いところは徹底して徐行でいい」 「実際に公道でやったら危ない(追突の可能性がある)ぐらい、はっきりと安全確認をしていることを試験官に見せろ」 ここで注意してほしいのが、指導員さんのスタンスである。いまさら「安全に走れ」とは言っていないのである。「……ということを試験官に見せろ」と言っているのである。ようするに受験指導だ、ということである。 もっとも、それでも僕のライディングの技量自体も上昇したということも付け加えておく。目的がなんであれ、練習すれば技能は磨かれる(^_^;)。 最後のまとめの教習で意外と苦労したのが、短制動であった。 なんと言っても重量があるので、少々ビビるのである。それでブレーキを十分に握りこめない。また、発進からの加速期間が短いので1速でフル加速,急いで2,3速にシフトアップして40キロ定常状態へ持っていくのが困難なのだった。 そして、5月。約40時間練習した頃、「君、試験場に行って予約を取ってきなさい」と言われた。 |