広島の聞き書き

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■はじめに                                       

母は、広島で被爆している。
以下で述べる、当時の市内の話は、僕が中学生になってから始めて話してくれたことでした。
後に、広島市の原爆資料館に連れていってくれたことがあり、当時は戦後30年近くたっていたのだが、母がそこを訪れたのは初めてだったということでした。
それでも息子に見せておきたかったのでしょう。
母は息を詰まらせて涙ぐみながらも、しゃんと背を伸ばし、展示について説明してくれました。

資料館にあるものはごくありふれたものであり、そういったものが市内全域に広がっていたこと。
そして、親子が火に追われながら逃げるロウ人形の前では、しばらく立ち止まってひとことだけ言った。

「こんなもんじゃなかった」

こういった話を受け取った者としては、たとえそのいくらかなりとも伝えていく義務を負っているのではないかと思う。
たぶん、もう今なら母も許してくれるだろう。

■当時の状況                                     

母は当時、公立校に通っている女学生でした。
家は現在では平和公園となった一角にあり、近所には軍医総監の家があり、当番兵が馬丁をしていたとか聞きましたし、また祖母がたいへんにハイカラであったことから考えても、上流社会であったことは間違いがないようです。
もちろん、母も学校単位での動員に出され、印刷工場でオフセット印刷をしたり、松根油を掘るのを手伝ったりといったこともしていましたし、祖父(廣島大学の文学科の教授でした)も徴兵されるなど、戦争には無関係ではいられませんでしたが、それでも戦時中としては平穏な生活を送っていたといえたのではないでしょうか。

その当時、廣島は海軍の江田島が近く、呉の軍港とあり、海軍の中心地でした。
しかし、それまでは艦載機による機銃掃射などの散発的な攻撃は受けていたものの、焼夷弾や爆弾を使用した戦略爆撃の対象とはされていませんでした。
話はそれますが、母は川の土手を他の女学生と歩いているときに、米軍の艦載機(一般に「グラマン」と言っていたようです)の機銃掃射を受けたことがあるそうです。
そのときは幸い被害を受けませんでしたが、土手の下に伏せた上を機銃弾が過ぎ、パイロットのにやりと笑った顔が見えてとても恐ろしかったと言っていました。

■その時(8/6)                                   

母はなんらかの理由で動員に行っていなかったということです。理由については聞いたかもしれませんが、忘れてしまいました。
もしも、動員に行っていたらこの話はありえませんでした。なぜなら、動員先の工場は全滅したからです。

その日はとても暑く、良い天気だったということ、そして「豊後水道より敵機一機……」というのを聞いたとか、あるいはこのあたりは他の読んだものと記憶が混乱しているかもしれません。
しかし、いずれにしろ、その時点では大した危機感はなかったようです。なぜなら、何かの用事で近所まで出かけた途中にその時を迎えたのですから(あるいは単に遅れて動員に行く途中だったのかもしれませんが。このあたりははっきりしません)。
ただ、爆撃機の爆音は聞いていたのではないかと思います。母はかなり後になっても上空を飛行機が通ったり、あるいは大型トラックの音にさえ不安そうな様子を見せましたから。

その時、母はたまたまどこかの分厚いコンクリートの壁の横を歩いていました。これが結果的に母の命を救いました。
原子爆弾が投下されて爆発したとき、母は「あたりが完全にまっくらになって『私は目が見えなくなったどうしよう』と思った」といいます。同時に耳も聞こえず、すべての感覚が遮断された状態がしばらく続き、「死んだのかな」と思っているうちに、しばらくすると煙が薄れ、目が見えるようになってきたということでした。
『ピカドン』という言葉がありますが、「どうもあれは、(母より)もう少し離れた場所で被爆された方の言葉のように思う」と母は申しておりました。もちろん、母は爆心地から近距離におりましたので、爆発の閃光を少しでも見ていたら、母の命はその時点でなくなっていたはずです。
母がその距離で生き延びられたのは、たまたまコンクリート壁に熱線・一次放射線・熱爆発前線を遮断されたおかげだったのでしょう。

■投下直後                                      

その後の母の話は少し順序が混乱します。異常な状況であったために、母自身も記憶に混乱があるのと、話せることに限度があったのだと思います。
人と馬が死んでいた、というよりも、どこを見ても死体と負傷者と瓦礫と火しかないという状況だったそうです。
原爆資料館にある遺物はそこいらじゅうにあったごく普通のそれだけのものでしかないと聞きました。ただ、母も語るべき言葉がないらしく、「地獄だった」と聞いたにすぎません。

以下は広島市から脱出するときのエピソードの聞き書きです。

どっちへ逃げていいのかわからなかった。どっちへ逃げても助かるかどうかはわからなかった。あの時、一本間違った道を選んでいたら、命はなかっただろう。

兵隊さんが倒れていて「水をくれ」と言っていた。
母は「大丈夫です、しっかりして。もうすぐ助かりますから」と言って励ましたが、どう見てもその兵隊さんが助かるとは思えなかった。「どうして自分があんなときに冷静に励ますことができたのかわからない、異常な精神だったのでしょうね」とのこと。

川の側で、迷子を見つけた。しばらく連れていたが、その子を呼ぶ声が聞こえたので、その児はそっちへ行った。でも、どうなったかはわからない。

川は「熱い熱い」という人であふれていた。そして、水の中に入ると、そのまま死んでしまう人がとても多く、川は死体であふれていた。自分も川を渡ろうとして近くまでおりたが、とても渡るのは無理だと判断してひきかえした。渡ろうとして水に入っていたら死んでいたと思う。(筆者付記:母は遠泳に出るくらいの水泳の腕はあったのであるが、そのときの話からするとそういう問題ではなかったようである。詳細は不明)
また、渡しの船には人が群がり、落ちる人も多かった。

「○○橋」(失念)の欄干が全て倒れていた。ちなみに、広島に行ったときに僕もその欄干を見たが、周囲が1メートルを越える太い石の柱である。

原爆資料館には服や皮膚が熱線でボロボロになっているロウ人形があるが、「あんなものではない」とのこと。実際には引きずったりしていたという。ただ、このあたりの話になると、母も口が重くなり、多くを語ることはなかった。

聞いた話としては、こんなところです。
詳細に書くと冷静ではいられないので、概要だけ記しました。

■その後                                        

あとは、市内で家族と再会を果たし、市外に逃れて疎開したという。
ただ、しばらくは家からも出ずに暮らしたそうである。
その時の話(事実かどうかは確認していません)。

市内から●●(場所失念…山?島?)に運んで遺体を処理していたが、とても追いつかなかったので、大きな穴を掘ってそこで焼いていた。だが、そのうちそれすらも間に合わなくなった。

市内は、片付けても片付けても遺体が出て来ておわらなかった。

福山からは広島方面が真っ赤に見えたと聞いた。

五右衛門風呂を盗み出そうとして二次放射線にやられて死ぬものが多くいた。

■終りに                                        

僕の聞いたのはおおよそ、以上のような内容です。
これらの話はすべて、ぽつぽつと、ときには息を詰まらせながら聞かせてくれた話です。思い出すのもつらいことだったはずです。
それでも、母は精一杯、これだけのことを僕に伝えてくれました。
僕が書き残せるのは、その内容だけです。
母がそれを語るときの表情、息づかい、口調などはとても再現できません。それを伝えない限り、こんな浅薄な文章では1/100も伝わらないのが無念です。
主義・主張はどうでもいいです。
ただ核兵器は、「この世でもっとも残虐な苦しみを与える」兵器であるということを、皆に知ってもらいたいと思います。
それは数字にはならないことなのです。どうか「●●万人ならば●●爆撃と同じ」といった考え方をしないでください。それは、まったく違ったことなのです。
人にあのような苦しみを与えることが許されるはずがないという、ただそれだけのことなのです。

人に二度と核兵器が使用されないことと、御霊の安からんことを祈りつつ。
そして、亡くなった方のご冥福をお祈りします。

松本尚子(旧姓)の息子、石井宏治しるす。

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